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「共同体の規模と構成の論理」 by大石久和氏(国土政策研究所 所長)の論文を紹介します!

一般財団法人国土技術研究センターという組織があります。

<国土技術研究センター組織図>

政府系の国土政策研究集団です。
理事長は元の国交省事務次官、今回紹介する大石氏も道路局長や国交省技監(次官級ポスト)を歴任していて、政策に一定の影響力がある組織だと思います。

そういう方の論文だったので、政府がこういう考え方を受け入れてくれたらいいなと思いました。なるほど

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鉛筆共同体の規模と構成の論理   国土政策研究所長 大石 久和

われわれ日本人は、都市城壁を必要とするような戦闘や紛争に備える必要はなかったが、世界中のほとんどの民族がそれを必要としたことはたびたび紹介してきた。ドーバー海峡の幅が30㎞と小さく、対馬海峡の幅が200㎞と大きいという違いが、イギリスとの比較でいえば、われわれを相当に特異な存在にしたのである。

 大陸から大軍が簡単に渡ることができたイギリスは西洋文明の一派に属するが、日本文明が中国文明の亜流ではなく世界8大文明の1つとされるのは、この海峡幅が効いている。

 今回特に紹介したいのは、「われわれはずっと小集落に暮らしてきた民」なのだということである。種々の研究によれば、縄文時代の三内丸山遺跡でも、江戸時代の末期でも、われわれの集落の単位は、せいぜい400人規模だったようなのである。

 地形の厳しいわが国でこの大きさの集落ごとに城壁で囲うことは、困難なことであったと考えられる。外敵の侵入を完全にブロックすることができる規模(高さや幅)の構造物は、エリアが広い方が投資効率がいいのは当然で、だからこそ、パリは最終城壁が34㎞の円形となったのであり、長安は10㎞×8㎞という規模の方形であったのである。

 400人程度の集落とは、黒澤明の「七人の侍」で描かれた世界である。そもそも「強固な城壁で囲んでおかなければ頻繁に起こってしまう悲劇的な惨殺」といった事態が皆無だったから、映画もそうだったが城壁で囲んでなんかいない。

 この集落は黒澤映画で現されているように、それぞれが独立的な集落であり、宮本常一が丹念に実証的に調査した記録によれば、そこでは集落全戸の参加による徹底的な話し合いがなされ、それが物事の決定手段であった。

 「峠」という漢字が日本で生まれた国字であり、英語・ドイツ語・中国語にも、このニュアンスを持つ言葉が存在しないことを深く考える必要がある。

 この集落を単位として、灌漑、河川改修、道普請、屋根葺き、災害対応・水防、災害復旧、冠婚葬祭、お祭り、田植え、稲刈りといった集団作業のすべてをこなしてきたのである。そのため、ここで暮らしていくためには「顔見知りのみんなが気まずくならない・いさかいを起こさない」ことが、何にもまして守らなければならなかったことであった。

 西洋人はもとより中国人にもまったく理解できないのが「けんか両成敗」である。けんかの原因を追及しどちらがどう悪かったのかを糺すことは二の次で、とにかくもめていること自体が悪いとする感覚など、世界のほとんどどこにもない。

 筆者は、これを日本人による「共」の発見であり、「共の世界に住む日本人」というのである。共としてまとまっていること、共が力を発揮できるようにすることが第一義の世界なのである。

 もちろんこれは対馬海峡の対岸側の世界との比較で述べている。直系が10㎞の円内世界や一辺が10㎞もある世界では、内部の人間がみんな顔見知りなどであるはずがない。紛争のない平和な時期を狭い城壁内で多くの人々が、いかに秩序正しく暮らしていくのかということや、いざ紛争というときに誰がどのように戦い、誰がいかに銃後の支援に従事するのかといったことが、あらかじめ「城壁内の構成員が誰にもわかる形で知識共有」されていなければならない。

 筆者は、西洋の場合これが「公」の発見だったと考えている。「みんなが守らなければならないルールをみんなでつくる」という「みんなが個人の利益に優先して行わなければならないことがある」という認識に至ることが、公の発見というのである。

 公が優れているとか、共の方がいいといったとらえ方は正しくない。要は、彼我にはこのような違いがあるということなのであってそれ以上でも以下でもない。

 では、西洋と同じように城壁内に都市を造ってきた中国人の「秩序意識」はどうだったのだろうかと考えると、これは「権力による秩序形成」としかいいようがないと考える。

 中国人の王雲海一橋大学教授は、「中国の社会の原点は国家権力に他ならない」と述べ、さらに「社会体制が権力を規定するのではなく、社会体制が権力の中にある。中国の秩序を形作っているのはむき出しの権力である」というのである。

 その後の歴史的展開を見ても、中国には城壁内に「市民社会」をつくり上げてきた形跡がない。また広い平野を生活ゾーンとせざるを得なかったため、小さな共同体の「共」の世界もつくり得なかった。唯一絶対の権力が官僚制を駆使して全土を掌握してきたのである。

 西洋よりもかなり広大な国土を統治し、西洋よりも強力で多種多様な「蛮夷(四夷)」に対抗するには、強い権力集中のみがこれを可能としたからである。そのため、中国では「権力が弱まる」ことは絶対に拒否するという潜在意識がいまも生きている。権力が不安定になりかねない選挙制度の導入など、現在でもとんでもないことなのである。したがって、かの国では有史以来全国規模の自由選挙は一度も行われていない。

 「地球市民」などと耳に易しい標語を連発する輩がいる。「地球外人間」が存在しない以上、各国国民は地球市民になどなれるわけがない。また、長い歴史が民族を育ててきた経緯を考えると、近年人の移動が増えたからといって、にわかに意識が変わるはずもない。

 マシュー・ホワイト氏の研究によれば三大宗教の共通啓典である旧約聖書には、128万3000人の殺戮が計上されているという。「正義の実現のためには行うべき殺戮がある」と考える人々と共にどうしたら地球市民を構成することができるのかを少し考えるだけでも、この標語は絵空事に過ぎないことが簡単に理解できる。

 私益に優先する公益があるという「公」を発見し、それを心得とした「市民」を生んだ人々。
なによりも仲間であることを大切にして、仲間への貢献に至福を感じるようになった「共」のわれわれ。
唯一絶対の権力に縛られなければ共同体を維持できなかった人々。

 世界は実に多様な考えに拘束されているのである。


波線転載END

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文中に宮本常一が出てきますが、私も何冊か読んだことがあります。(例えば、忘れられた日本人
日本の地方の風土がよくわかるもので、日本人を考えるときの原点だと思いました。
今でも日本人の意識はあまり変わっていないのではないかと思います。
だから、日本には「人種の坩堝」は合わないのです。

揉め事を嫌う日本人が外国移民を入れてしまって揉め事が起きたら・・・
喧嘩両成敗で日本人が損をして譲歩することになるのです。そういう国民性です。
だから、政府は国民を守るために、そもそも移民を入れない姿勢を堅持するべきだと思います。


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コメント

2. Re:無題

>orangeさん

そうなんですね。どちらがいいとか悪いという問題ではなくて、違うということを理解して、お互い諍いが起きないように暮らしていくことを考えるべきだと思います。

違うものを無理やり一緒にするのは間違いです。

どうして災害時に体育館でのみんな一緒の生活が「ひどいもの」として共通認識されているのか、考えれば誰でもわかります。

多文化共生の究極の姿は体育館でのみんな一緒生活です。

1. 無題

どちらが良いとか悪いのではなく、長い歴史と置かれた環境によって価値観が異なるということで、価値観が異なれば一緒に生活することは諍いを生むということだと思いました。

日本も今のような価値観に至るまでは、様々なルートで日本にたどり着いた異なる民族が衝突して戦っていたと思います。また外国から異なる価値観を持った人間が多く入ってくれば、価値観が共有されるまで長い時間が掛かり、その間は諍いが起こることになります。そういったことから、移民を制限することは必要だと思います。

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