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資本主義が求める効率化、ある程度のところで歯止めが必要。余裕のない社会に明日はない!

ここのところの大雨で甚大な被害が出ています。
お悔やみとお見舞い申し上げます。
そして、行方不明者の方が一刻も早く見つかりますよう願っています。
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日本は自然災害が多いところです。
国土も山が多く人が住むのに適したところは限られています。
それでも便利なところに住みたいという需要と、それを供給する事業はマッチするものがあり、今まで人が住むのには適さないような所も技術力とやらで克服して居住空間を広げてきました。

子供のころに川の氾濫で人家が呑み込まれていくTV映像を見た時に、これからはもうこういうところには家は建たないのだと単純に思いました。危ないからです。
しかし、実際は、堤防を高くしたり強度を上げたりして、同じように危険な場所を住宅地として供給し続けています。技術力が自然の猛威を防げると慢心しているからだと思います。

江戸時代に火災の延焼を防ぐため、江戸の町には「火除地(ひよけち)」が作られました。
当時の消火は家を壊して燃えるものをなくすというものでしたから、大きな通りとか、すぐに取り壊せる露店などだけ出店を許している更地など、いざという時には「空き地」にして火を食い止めたのです。

働かない蟻の話をご存知だと思います。
蟻の巣にいる8割が働いて2割が働かないのです。
ところが面白いことに、働く蟻だけを取り出して巣を作らせると、そのうちの2割が働かなくなります。
逆に、働かない2割の蟻だけを取り出して巣を作らせると、そのうちの8割が働くようになります。
働かない2割は緊急時の予備だそうです。

資本主義は金儲けが至上命題で、そのために効率化が美徳とされます。
きっちり隙間なく空間を使用する町や、寸暇を惜しんで全員が精一杯働く社会、これが目指すものです。
金儲けに絡まない行政が本当は歯止めをかけないといけないのです。
しかし、地縁血縁、表と裏社会の資本家から有形無形の支援や脅しを受けている行政側には、毅然とした仕事は今は期待できないものとなってしまいました。

「土砂災害危険箇所」という法規制のないものまでは簡単に作ることができますが、それをもとに実際に法的な規制を受ける「土砂災害警戒区域」(←ハザードマップの策定や避難訓練をしないといけません)や「土砂災害特別警戒区域」(←住宅等の開発が許可制、建物構造の規制、移転の勧告など規制があります)は住民への説明や合意が前提でなかなかできない都道府県もあるようです。

上記のような土地を危険な区域として指定することは、科学的な根拠だけでやるべきだと思います。
なぜなら相手が自然だからです。

「土砂災害危険箇所」は以下の3つを総称して呼びます。 単純に科学的根拠に基づいています。
1. 急傾斜地崩壊危険箇所
傾斜度30度以上、高さ5m以上の急傾斜地で人家や公共施設に被害を及ぼす恐れのある急傾斜地および近接地を急傾斜地崩壊危険箇所といいます。

2. 土石流危険渓流
渓流の勾配が3度以上あり、土石流が発生した場合に被害が予想される危険区域に、人家や公共施設がある渓流を土石流危険渓流といいます。

3. 地すべり危険箇所
空中写真の判読や災害記録の調査、現地調査によって、地すべりの発生する恐れがあると判断された区域のうち、河川・道路・公共施設・人家等に被害を与える恐れのある範囲を地すべり危険箇所といいます。

これらをみて、住むのが不安になるのが普通だと思います。

そして世間は、家を建てるときに建築の許可があっても本当に安全かどうかは最終的に自己判断が求められると言います。
確かにそうでしょう。しかし、手ごろな物件があり、通勤も便利で、行政のお墨付きもあるなら、悪いことは考えずに買ってしまおうというのが人間というものです。

江戸時代の火除地は、なければ、金持ちも貧乏人も、武士も町人も、みんなが被害に遭いました。だから無駄があってもみんな(資本家も含めて)が納得できました。
もちろん火除地のように公園や河川敷は今もあります。でも、それは危険ではない区域に住んでいる人にとって意味のあるものです。

川のそば、山の斜面や裾野は、それ自体が火除地の役目をするもので、そこにまで家を建てているのが現状です。ではどうしてみんなが反対しないのでしょうか?
それは、川のそば、山の斜面などから離れて住んでいる人は被害に遭いません。だから何も言わないのです。

開発した業者、許可した行政は痛い思いをしません。
そこを買って住んでいる人だけが酷い目に遭います。
(厳密には国や行政も救助や避難支援をするのでお金がかかりますが、国民や県民みんなの税金で賄われますから担当者や政治家の懐は痛まないのです。)

山と平野の間に畑でもあれば、突然街中に野生動物が現れることもないでしょう。
土砂災害があっても畑が潰れるだけです。
平野に水田が多くあれば、そこで水を貯めたり、気温を穏和に保ったりもできますが、そういうものも、都市部には贅沢だと言われてどんどん消されてしまっています。
川も本来の姿を変えられて、昔の川(の上)に住んでいる人もいます。

田んぼや畑をえさ場にしている鳥や動物がいますが、そういうものは絶滅してもいいという考えの人もいます。
しかし、私はそういうものも人間が養えるのが豊かな人間社会だと思っています。生態系の中にいる人間ですから、そういう動植物も私達を支えてくれています。

私は人間が自然に挑まず、他の生き物に対して傲慢にならず、もっと謙虚に生きていかなくては、単なる地球の破壊者になってしまうのではないかと思っています。


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最後に、こんなブログを見つけました。
2012年7月に開かれたリオ会議でのウルグアイ、ムヒカ大統領のスピーチを紹介しています。
とても感動しました。感激。

リオ会議でもっとも衝撃的なスピーチ:ムヒカ大統領のスピーチ (日本語版)
Akira Uchimura 打村明  2012/07/22

会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。

しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?

質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億~80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?

マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

 私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?

このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。

国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。

根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、世界でもっとも美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。

幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。

ありがとうございました。

参照元 Read the original here: http://hana.bi/2012/07/mujica-speech-nihongo/#ixzz3BTqUNIUo 
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コメント

2. Re:無題

>orangeさん
コメントありがとうございます。
「ノリシロ」、確かにそうですね。
この演説は色々と考えさせられます。
グローバリゼーションは行き着くところまでいかないと止まらないのでしょうね。
(。>0<。)

1. 無題

様々なものに余白というかノリシロのようなものが必要だということですよね。

そういえばウルグアイば、ブラジルとアルゼンチンの緩衝国でしたね。

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